人は海を前にすると大きく両手を広げ、山に向かうと手を合せる。海は未来を開き、山は古来の約束を守る。
近代日本ではぼくら日本人は皆海に向かってこの國を拓いて来たが、どこかで日本人としての暮しの上の約束事を忘れて来たかも知れぬ。
そういう思いの中で、ぼくは今、山に渇望している。
九州の道を車で走ると、山懐にしっかり包まれ、大切な約束に守られているようで吻っとする。ああ今日本人として、日本という國の中にいるのだ、と素直に思われる。
九州の山は美しい。子どもの頃親しんだ、絵本の中の風景のようだ。あの頃は、身近なものと毎日、色んな約束をしながら暮らしていたっけなぁ。
ぼくらがすっかり忘れていた事が、ぼくの体内に温かく、蘇って来るようだ。
ぼくは無性に嬉しくて、何だか燥ぎたくなる。すっかり子ども返りする。
山懐に守られた町では、日日の暮しの中で歩く道が、また素晴しい。
外灯の無い暗い道からは、星や月が美しく望まれる。「子どもの頃からちっとも変っていない道だから、目を瞑ってでも歩けます」、と老婆は語る。凸凹道にはお玉じゃくしが住んでいて、「いつか蛙になるんだよ」、と子どもたちは嬉しそう。「柵が無いから子どもは年中川に落ちるけど、だから古里の水の流れや徴温む様子や土手の草の性質も学ぶし、大人はいつも子供を見守って我を忘れません」、とは行政に携る人の誇らしげな言葉。
これは日本人の、暮しの上での約束事だった。賢い人びとが暮らす古里の風景は美しい。そうだ、観光の光とは、智慧の意だ。美しい光を訪ねて、九州の道をきょうも行こう。
『なごり雪』の撮影風景
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大林宣彦プロフィール
映画作家。広島県尾道市生まれ。尾道三部作『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』他『ふたり』『あした』など古里活かしの映画作りで国内外の受賞多数。九州では柳川市を舞台とした『廃市』、北九州一帯でロケした『水の旅人』、大分県臼杵市を舞台にした『なごり雪』など。最新作は宮部みゆき原作『理由』。著作も多く日本文芸大賞特別賞。2004年春の紫綬褒章受章など活躍。