奄美 緑と、歴史と、道と、重層の島
風景街道にチャレンジ
世界自然遺産へ 人々集う
「道の島」「海の道」―そんな言葉が数多く残る琉球弧・南海諸島。「日本風景街道」にふさわしい、世界自然遺産指定へのステップに―そんなスケール大きな官民合同の検討が始まった奄美を訪ねた。
交流の心、道の心 歴史は数万年
「奄美の寅さん」花井さん(上)と重信さん(下)
「道のNPOをさっそく立ち上げよう」―自称「奄美の寅さん」花井恒三さん(奄美市役所OB)は呼びかけた。名瀬の小さな居酒屋、集まったのは官民12人。「話す人が少し増える」と聞かされていたが、合同取材では時間不足。話し足りず、聞き足りず、全員が夜の部に自主・自費でなだれ込んだ。
「道守って私たちのキョラの道づくりと同じ」と重信千代乃さん(とびっきりまちづくり塾代表)。キョラの道?「清ら、美らとも書く。沖縄のちゅら(美ら)と同じ」。住民の日々の沿道美化植栽活動で、重信さんは、県・自治体との協定・協働化の仕掛け人の一人だ。すでに島内8カ所あるという。
「人・モノが行き来するのが道、奄美の道の歴史は旧石器地代から。遺跡もある」「海の道、島伝いの要衝だから道の島という」「動植物も同じ、ここは南限・北限が入り混じる」「マングローブの森、芭蕉や蘇鉄の群生。松並木もいい…」。誰もが熱っぽい。顔ぶれは世界自然遺産指定を目指す奄美ミュージアム構想に係る面々だ。花井さんが用意したロードミュージアム企画は泥染(大島紬)街道など64。話は尽きない。が、南の島の夜は長い。
若手唄者・前山信吾さん(右)は介護士で、CDも出したプロの卵
奄美の地域づくりに関わる鹿児島県職員の森さん
シマ唄も出た。唄者(うたしゃ)は前山真吾さん。シマとは集落のこと、シマ唄は集落ごとに違う。本土と同じ五音階だが、歌詞は「他所ものに分からぬ」方言で琉歌と同じ八八八六調。子供のしつけも言い伝えも唄だった。薩摩の圧政を受けていた時代の、家人(やんちゅ)の娘の悲恋を唄った「カンツメ節」が始まった―。
島の重い歴史―琉球、ついで薩摩、戦後は米軍と、よそものの支配や収奪が続いた島、奄美。支配下の生活は過酷を極めた。
「鹿児島と沖縄はいま、奄美の2兄弟。行き来こそ」と花井さん。「あ、明日は地元FM局の番組収録を入れています。大いに風景街道や道守のPRを」―最後に取材の窓口役、森耕三さん(鹿児島県大島支庁係長)が念を押した。大変な歓迎ぶりだ。旅人への島のホスピタリティは熱い。一時期の恩讐など超える交流の心、道の心は数万年の歴史の自負に裏打ちされている。
奄美版道守活動 「美らの道づくり」
奄美“美らさん道づくり”中勝若返り会
亜熱帯北限・奄美の緑はどこまでも濃く、厚い。山笑う―季節違いの季語が浮かぶほど全島全山緑。琉球黒松が多い。畑はサトウキビの背高い緑。リアス式海岸でトンネルが多く、抜けるとまた緑。沿道の植栽にハイビスカスやブーゲンビリアの赤花、レンギョウの黄が交じり南の島を彩る。時折、沿道に花壇や鉢植えが並ぶ。道がどこもきれいで、ごみが見当たらない。龍郷町中勝、国道58号の花壇に降り立つと老人会の恒田薫良・孝子夫妻ら6人と町役場道路担当者2人が出迎えてくれた。
「道向こうの鉢植えの列は若い人たちが世話している」「キョラの道に指定されて5年か。ずっと昔から道の世話は集落でしとったが、大事さを行政が認めてくれたんじゃね。特段の補助はない。看板を立ててくれた」「本茶トンネルができて私らは助かっている。道は大事にせな」―みなさん、気負いもくったくもない。
道路清掃する生徒たち
集落で金が要るとき、唄アシビ(遊び)をして善意を募るという。随分減ったが、8月踊り(盆踊り)、敬老会などと二月に一度くらい。集落ぐるみの下支えがある。そして工夫も―「花苗は高いので自宅で種から苗を育てている」と恒田孝子さん。
自慢の松並木を通り北上。蘇鉄と芭蕉の群生は険しい斜面をのぼり、全山蘇鉄・全山芭蕉の装いで東シナ海の水平線を望む。人間の植栽は自然の営みに比べればささやかだ。名瀬への帰路、ごみを拾う芦花部小中学校の子供たちに出会った。奄美の風景は、自然と人とがつむぎ合い、どこまでも美しい。
日本の原風景を見た 画家と作家
(左)諸純シバヤには島出身者や観光客が多く訪れる
(右)羽織袴に山高幅のサンバト
奄美の自然に生涯をかけた孤高の日本画家がいた。田中一村。50歳のとき奄美に移り住み、畑を作り菜食、紬工場で数年働き、画材代が貯まると制作に没頭。その繰り返しで69歳孤独死まで奄美の自然を描き続けた。一村はよく歩いた。絵は、細部にニライカナイの神宿る、日本画特有の精緻さ端正さに南の光が射し一木一草一鳥一石の存在感。画業の評価は死後。いま、奄美空港近くに記念美術館がある。
日本の原風景を奄美に見た作家がいた。島尾敏雄。加計呂麻島(奄美本島南部)に駐屯した元海軍特攻隊長。戦後、名瀬で長く暮らし、連載随想「名瀬だより」で日本をヤポネシアと名付けた。ヤポンは日本、ネシアは諸島。
言い得て妙―南の島々と本土との文化・文明の中継地、行き来の歴史が生んだ命名だ。
訪ねた日、特攻遺跡に近くで諸鈍シバヤ(境内芝居)が立った。平家落人が始めた年一度の伝統行事。手作り面の寸劇風の踊り10番と人形劇計11番。羽織袴に山高帽の進行役はサンバト(三番叟)口上で言う。「トーダイ(東西)トーダイ、クヌ村は三千年の昔から踊り…」。カマ踊りは鎌を持ち、キンコウ節は吉田兼好・徒然草が素材。スクテングワはもう意味不明という。子供相撲や沖縄エイサーなど前座を含め諸鈍シバヤは混交多彩、島の歴史の証。国指定重要無形民俗文化財となっている。
島の反対側の実久集落では同じ日、源実久三郎を祭る神社で源氏追悼行事がある。今年は準備中の事故で中止されたが、かつて諸鈍・実久の力持ち比べもあったという。追う源氏と追われる平氏。こもごも迎えた島、映画「男はつらいよ」でフーテンの寅が最後に足をとどめたのもここ。デイゴ並木と砂浜は映画のように美しかった。
「海の道」体感と船中泊で鹿児島に戻り、高速船で屋久島と種子島を巡った。ここを千年前に通った遣隋使・遣唐使船の苦難はいかばかりだったろう。古杉、猿・鹿と出会った屋久の世界遺産の道。ロケット基地の種子島、鉄砲伝来地近くで道清掃の子供たちに出会った。短い旅で三度目だった。どの島も道が美しい。「おいでなさい」と語るように。九州の道守たちの修学旅行を、あるいは交流会を、南の島々で、そんな案が浮かんだ。
(滝平道郎)