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街道をゆく

【vol.13】 唐津・虹の松原と松の道

上空からの奄美大島

 九州各地で始まった道守活動は今、新しいうねりへとつながり始めています。道の清掃や植栽、歴史や文化の継承が、美しい道の風景を醸し出す。そこにさまざまな地域資源が響き逢い、新しい街道風景を育んでいます。創刊4年目の道守通信は「交響の道をいく・新街道風景」を連載します。


●郷土史家の中里さん

郷土史家の中里さん

植栽400年、人の行き来が育てた白砂青松
 佐賀県唐津市の虹の松原や呼子などには、年間約780万人の観光客が訪れる。国の特別名勝でもある虹の松原はかつて「二里の松原」と呼ばれた。虹型の円弧の砂浜、その総延長は二里(8km)。浜辺に沿う松林は約5km。植栽から400年、老若百万本のクロマツが続く。「白砂青松は里浜の原風景。人々はここを使い、松原は暮らしを支え来訪者を迎えた。使い続けたから残った」と地元郷土史家・中里紀元さん(75)は言う。松籟に誘われ松原の過去・現在・未来を訪ねよう。


従是東對州領

●従是東對州領

だれもが大事にした松林 常緑の秘密は松葉かき
 「自然や環境の多くは人々の営みで守られ風景になり歴史となる。虹の松原は典型」と中里さんの案内に力がこもった。中を貫く道は県道347号(旧国道202号)、まっすぐな2車線に松が枝迫る。ガードレールは木製で、随所に切れ目があって松原にすぐ入れる。古い国境石「従是東對州領」や山頭火句碑「松に腰掛けて松を観る」、万葉歌碑など古人や文人の足跡に出合う。
 芝生より柔らかな歩きの感触は、この辺りがかつて砂丘だったからだ。山側の古い砂丘との間は湿地だった。松浦潟と呼ばれ万葉の時代から歌に詠まれた。松浦潟を水田にするため防風・防砂・防潮の松を植えたのは、長崎奉行のときにキリスト教徒でありながら二十六聖人の処刑を行った唐津初代藩主、キリシタン大名・寺沢志摩守広高。着手は、関ケ原の合戦直後の1601、2年とされる。
 寺沢は「中に大事な松が7本ある。切れば死罪」と厳しく臨んだが、不注意で松を切った農民を「大事な松ではない」と許した。農民は松葉かきをし、集めた松葉を燃料に、城下で売って生計の足しにもできた。


●佐賀大の田中教授

佐賀大の田中教授

 この松葉かきこそが松原長寿の秘訣。砂地の腐葉土化を防ぐ。虹の松原近くの佐賀大学海浜台地生物研究センターの教授で「虹の松原七不思議の会」代表でもある田中明さんは、全国各地の松原保存運動に招かれるたびに松葉かきの秘密を力説している。

松の下に歴史あり 一揆や刑場、馬車鉄道、ダンス場
 松原ができると唐津藩主は参勤交代でここを通り、風光明美を愛した文人たち、例えば司馬江漢が、頼山陽が行き交い、いつしか二里の松原の二里を虹と洒落、虹の古語を使って霓林と呼び始めた。「虹の松原」の由来とされる。
 松原の道は細く、領民たちの生活・作業道でもあったが、時に結集・決起の場となる。明和8年(1771)の虹の松原一揆では農漁民2万5千余人が松原の国境一帯に結集。林立の松を盾に身を守り、隣地の幕領に失政を伝える作戦は効を奏し要求が通ったが、代償に指導者4人が松原の一隅で処刑された。一揆顕彰碑が松原内に建ったのは3年前。建立に尽力した中里さんは「唐津は歴史が古く観光資源に恵まれ、道をテーマにした取り組みは遅れた」という。
 明治33年、松原の道に馬が客車を引く「馬鉄」が登場、茶屋や松露饅頭や松原おこしが名物になり、外国人向けのホテルやダンス場も開館。江戸時代以上に文化人たちがここを訪れ作品を残した。白秋、山頭火、花袋、蒲原有明らだ。

一揆顕彰碑

●一揆顕彰碑

当時の鉄道馬車の写真

●当時の鉄道馬車の写真

 
銘菓・松原おこしの店主

●銘菓・松原おこしの店主

松の下に歴史あり 一揆や刑場、馬車鉄道、ダンス場
 今も松の下は変化のさ中。「大型車が通れなくなって客は10分の1に減った」と茶店の主人。反対に松原内で販売30年のからつバーガーの人気が一気に上昇、列ができるほど。環境保護の高まりで「虹の松原七不思議の会」が生まれたのは7年前。蛇がいない、井戸水は真水など七不思議が変化し始め、七不思議の解明と警告・啓蒙を行う。
 いま、郷土史家の中里さんや七不思議の会の田中教授、道守グループなどが「玄界灘風景街道」に取り組み始めた。計画づくりに携わる唐津市役所・企画政策課の若手スタッフ夏井康恵さんは「道は文化の編集装置、それを実感しています」と話す。


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