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街道をゆく

【vol.10】 長崎街道より  歴史が古い秋月街道

道が育んだ精神風土 自立・反骨


街道最大の難所・八丁峠入口

街道最大の難所・八丁峠入口

古処山の南側の麓に懐かれた筑前の小京都・秋月(朝倉市)。北へ小倉・常盤橋まで、南は久留米・府中までが秋月街道。長崎街道のほぼ南を並走する。歴史は長崎街道より古く、いまも随所に往時の姿をよくとどめている。

湿潤が秋月美人の秘密

街道最大の難所・八丁峠を東に下れば大隈(嘉麻市)、西に降りれば秋月。いまは九州自然歩道の一部で、古処山登山道でもある。「石畳が滑らか。人の行き来や産業が盛んだった証しです」と秋月街道ネットワークの会の石田勝憲会長(76)。
豊かな水流と水音の古道。流れは急で砂防堰が小さな滝をなし続く。「湿潤さが林の豊かさと秋月美人の秘密」と秋月ガイドでもある石田さん。 往時の旅の茶店「だんごあん」まで下ると城下町・秋月はすぐ。登山者や観光客が憩い清流に差し渡した大型番台の上で名物の葛切りや心太を楽しむ。

秋月街道ネットワークの会の石田会長。秋月ガイドでもある

秋月街道ネットワークの会の石田会長。秋月ガイドでもある

 秀吉軍、街道を下る



 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定軍がここを下って秋月を攻めた。中世の秋月氏は敗れ400年の歴史を閉じた。秋月氏は茶入れの名器「楢芝の肩衝き」を差し出して許され、日向・高鍋に移封。秀吉拝謁の人波・秋月詣では数万人に達したという。大隈には一夜城建築の褒美という秀吉の陣羽織や賞状が残り、いま国の重要文化財。
秋月は、福岡藩黒田氏の所領に。初代長政の遺言で三男・長興が新秋月藩5万石を興し、本藩と対立しながらも自立路線を歩み明治の「秋月県」まで続く。が、旧藩士たちは維新政府に抗し鎧兜で挙兵。明治9年(1876)秋月の乱である。

 
滑らかな石畳は往来が頻繁にあったことを示す

滑らかな石畳は往来が頻繁にあったことを示す


武家屋敷を生かした造りの秋月郷土館」

武家屋敷を生かした造りの秋月郷土館」

 道は、殖産・連携の土台

 保守反骨は秋月の精神風土か。近代化と経済成長から取り残され「古い建物も道も自然も残った」と石田さん。往時5000人の城下町はいま人口1000人を切る。だが「城下町」。「元寇や島原の乱のときの秋月藩出陣図は雄藩の証明」「ジェンナーより6年も早く種痘をしたのが藩医・緒方春朔」「目鏡橋は長崎から取り入れた渡来技術。橋脚がなく流木がひっかからない」―秋月ガイドは時空を超え自在に広がる。
8代藩主・長舒のことは特に自慢げ。殖産と文武、教育に力を注ぎ、和紙や鬢付け、久助葛、秋月の博多織などを興し「筑前続風土記」秋月名産品に50以上が名を連ねた。長舒は旧宗主・秋月氏(高鍋藩)から迎えた養子。同じ高鍋藩出身で米沢藩再興の名君・上杉鷹山の甥である。
秋月縁の産品や人々が秋月街道を行き来した。幹線は、既に幕府公認の長崎街道。だが藩主も交代のたび初国入りに秋月街道を使った。心意気はいま秋月街道ネットワークの会に引き継がれている。伝統的建造物群保存指定をきっかけに地域づくりから道を縁にした連携へ―。「他所との行き来、街道は心を広くする」と石田さんは言う。

長崎街道

目鏡橋は秋月のシンボル

目鏡橋は秋月のシンボル

登山者や観光客が憩う「だんごあん」

登山者や観光客が憩う「だんごあん」

毎年開かれる総会は今年で8回目

毎年開かれる総会は今年で8回目

 
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