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街道をゆく

【vol.5】 豊前街道の今(熊本・山鹿)

 熊本城を起点に北へ。現在の植木町、鹿央町、山鹿市、三加和町を通り、南関を経て小倉へと向かう小倉路を熊本では豊前街道と呼んだ。奈良時代の記録が残るほど重要な歴史の道だ。産業や文化の基幹道路の時代もあった。戦場にもなった。街道の歴史を大事にし、いまに生かす山鹿市や三加和町を訪ねた。



豊前街道沿いに栄えた山鹿の商店街

温泉郷を貫いた産業道路
町並みを守る古今の旦那衆たち

 山鹿は豊前街道きっての湯の町、大名たちも好んで訪れた宿場町だった。と同時に熊本城を築いた加藤清正の街道整備で山鹿は米の集散地となった。惣門から続く約1・3kmの街道沿いにはいまも面影を残す老舗が多い。

木屋本店8代目当主・井口さん。『米米惣門ツアー』の代表も兼任。


 「山鹿は昔から住民同士の結束が固い。わが家より先に地域を考える。知恵を絞り、資金を出し合い、町を発展させよう。そんな旦那衆が多かったのです」。話してくれたのは天保年間(1830年頃)に創業した木屋本店の8代目主人・井口圭祐さん。

 旦那衆の逸話は多い。たとえば西南の役。旦那衆たちは下町の光専寺を薩軍側の野戦病院として開放し、手厚く応対した。官軍側の処罰も覚悟で。勇気ある判断が山鹿の町を戦火から救ったという。


山鹿の誇り・八千代座(国指定の重要文化財)



江戸中期に描かれた山鹿・湯町の地図(複製)


金灯篭(中島清さん作)

 明治43年に誕生した八千代座も旦那衆たちが資金を調達し合って建てた江戸期の様式を残す芝居小屋だ。粋か、郷愁か。豊前街道の要衝、その地位は山鹿を外れて整備された国道、高速道路により奪われた。
しかし、いったんは廃屋となった八千代座を復活させたのも町の力。大修復から5年。「協力の大切さを教えられます。八千代座名物の坂東玉三郎公演は町の一大イベント。一緒に盛り上る楽しさがある」と井口さん。住民がガイドする酒蔵・味噌蔵めぐり「米米惣門ツアー」も好評で今年5年目。豊前街道は山鹿灯籠まつりの舞台にもなる。ハイライト千人踊りへの行き来の踊りは間近で身近。通りに休憩所や足湯も登場、豊前街道はいま山鹿の町づくりの主舞台だ。


参勤交代の難所・腹切坂。
緑清々しい歴史的シーニック・ロード

豊前街道顕彰会長・國武さん。昨年10月にはウォークラリーも開催。




永ノ原台地から寺ノ本集落へと続く腹切坂。名前の由来には広い台地(原)の端(切り)にあたることからついたという説も。

 「将来の道づくり・町づくりのためにも歴史をたどることが大事」という豊前街道顕彰会会長・國武慶旭さんは三加和町に住む。早くから街道の歴史的な遺産価値に注目し、3年前に会をつくった。現在、会員は50人。街道沿いの宿場町跡で現地研修を重ね、街道の保存や整備事業にも積極的に携わる。

 街道の見所を尋ねると「やっぱり腹切坂やろか」。ドキッとする。が、由来はハラキリ(原を切る)の地形のようで、参勤交代道中屈指の難所とされた坂だ。明治・大正・昭和と忘れ去られていたが、顕彰活動が実り4年がかりの整備で一昨年に復活した。
のどかな畑の傍に木立に囲まれた土の坂道が続く。緑清々しい歴史的シーニック・ロードだ。坂の傾斜はきついが、現代人にはいい運動になる。数百人を越す大名行列が難儀し、西南の役で激しい攻防戦があった。畑を耕すと当時の鉄砲弾が出てきたりする。
坂道を歩きながら「道を知るには実際に歩くのが一番。町と町、地域と地域がつながっていることを実感します」と國武さん。豊前街道で結ばれた地域とも交流を深めたいという。歴史に学び道を守る。
現代の道守たち、その姿や活動ぶりは多士済々である。

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