
飫肥城/天正16年から280年間、明治初期まで伊藤家居城。大手門は樹齢百年をこす飫肥杉を用いて昭和53年(1978年)7月に復元された。
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戦国時代を通じて、宿敵島津家とその覇権が争われた飫肥城は、秀吉の九州平定に伴い、伊東家の居城となります。その領地飫肥藩5万1千石は、中央を東西に走る山々によって分割されていました。
初代藩主祐兵は、北部清武まで約40キロ、ほぼ一直線に走る飫肥街道を開きました。その道は、少しずつルートを変えながら、現在も受け継がれています。
北郷町に住む郷土史家 本山隆義さんは、戦国末期から、江戸時代を通じて、多くの旅人が歩いた旧道に魅せられ、その保存に努めてきました。杉木立の中を歩きながら、本山さんは、関が原の前年、この街道を通った一人の姫に思いを馳せます。豊後大友家の血を引き、伊東家家老の養女となっていた姫の名は雪江。14歳の彼女は、藩主の信任厚い清武地頭、稲津掃部介重正に嫁ぐため、街道を北へ登りました。現在、花立公園として整備されている高台は、街道から飫肥城下を見下ろすことができる最後の場所。姫もまた、慣れ親しんだ飫肥城下を感慨とともに眺めたことでしょう。
翌年、関が原の戦いで、東軍となった伊東家の配下、掃部介は、西軍に属する宮崎城を攻め落とします。ところが、その領主は、遠く関が原の地で合戦前日東軍に寝返っていたのです。結果的に味方の城を攻めたとして、掃部介は家康の怒りを買い、切腹を命ぜられます。
雪江は、実家の計らいで、山仮屋まで連れ戻されますが、供の一人から真相を聞き、そのまま清武に引き返すと夫の後を追いました。飫肥杉に覆われた街道を一度も往復することなく散っていった一つの命。幼い姫が見たそのままの景色が今も残されているのです。

関所へと続く街道/4百年の時を経ても尚、当時の姿をそのまま残している貴重な街道は、山仮屋跡を挟んでおよそ5キロ。当時の旅人の気分そのままに歩くことができる。 |
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花立公園から飫肥・日南市を望む/北へ上る旅人が、街道から最後に飫肥城下を見おろせた。標高489mの高台は、現在公園として整備され、春には一帯がピンク色に染まる。桜の満開時にはライトアップもされる。 |
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山仮屋跡/城下への侵入を防ぐため設けられた最初の防衛拠点と考えられる。飫肥藩の関所跡。後年は、番所となり、参勤交代の休憩所の役割も果たした。 |
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掃部介・雪江の墓/掃部介・雪江の墓:清武にある二人の墓石。雪江の名が右に記されており、貞女の鑑として彼女が遇されてきたことが偲ばれる。 |
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