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土木遺産

【vol.10】 有明海干拓史を語る松土居と大搦・授産社搦堤防

人々が集い、役目を終えて道に


有明海が一望でき、干潮時にはムツゴロウの姿も有明海が一望でき、干潮時にはムツゴロウの姿も

 有明海沿岸は古くから各地で干拓が行われてきた。佐賀県東与賀町はほぼ全体が干拓地。海抜0.4〜2.8mの低平地で、江戸時代や明治時代の堤防が残る。古い堤防は、堰き止めと防潮という初期の役目を終えると「第2線堤」と呼ばれる予備堤防になり、さらに道そのものになっていく。大搦堤防と授産社搦堤防は石積みで干拓時の姿を残し、平成15年に土木学会選奨土木遺産に指定された。




有明海干拓史を語る松土居と大搦・授産社搦堤防

自然と人々の合作・干拓地


 川が運んでくる土砂が堆積すると扇状地や沖積平野となる。干潟はその原型だ。干満差が大きい内海・有明海は干潟が多い。干潟を陸地にするのが伝統的な干拓法で、いわば自然と人々の合作である。
 東与賀町の中央部に残る松土居(現在は国道444号の一部)は、現存する最古の潮受堤防である。治水の神様・成富兵庫茂安が永禄3年(1560)着工、寛永11年(1634)完成と伝えられる。当時の築堤法は、干潟に一間間隔に松丸太を打ち込み、竹や粗朶を絡ませて柵を作り放置し、土砂や汚泥の付着を待って堤防を造った。時間がかかる築堤法が一変したのは明治時代になってからである。

干拓法を一変させたオランダの技術

 「今でも第2線の潮受堤防としての力を持っています」と干拓堤防の研究に取り組む大串浩一郎助教授。明治維新前後、干拓と堤防の国・オランダから石積み法が入ってきた。
 明治元年(1868)、佐賀藩主鍋島直大は松土居の沖合い約1kmの干拓に乗り出した。資金と資材を用意し、作業には元與賀郷の住民が当たり、明治4年(1871)長さ1425m、高さ2.6m、幅7mの大搦堤防が完成した。
 さらに明治の半ば、大搦堤防を延長するかたちで授産社搦堤防が築かれた。旧藩士らが政府への請願で得た公債(11万円)を基に結成した事業組合・授産社が造成したのでその名がある。堤防延長は1325m、高さ2.6m、幅7〜10m。  両堤防とも石積みで、オランダ工法に加え、土木工学と機械化によって的確性と敏速性がもたらされ、大型化が実現した。



普段は住民の生活道路 北側は上から泥がかぶせられている 干潟ギャラリーとなっている大授堤防 大串助教授佐賀大学理工学部都市工学科

普段は住民の生活道路

北側は上から泥がかぶせられている

干潟ギャラリーとなっている大授堤防

大串助教授佐賀大学理工学部都市工学科


自然と人、交流の伝統いまも

明治期の姿を色濃く残す授産社搦堤防

 現在の海岸線は大搦・授産社搦堤防の南1km。昭和9年に築かれたコンクリート造りで、大授堤防と名付けられた。大搦・授産社搦堤防は防潮の役目を終えたが、昭和57年に町道となり、同時に第1線堤(大授堤防)決壊などに備える第2線堤(予備堤防)の役目を担っている。だから南面、海側の石積みがいまも残っているのだ。
 干潟の干拓という自然と人との交わりの伝統はいまも生きており、第1線堤・大授堤防は干潟ギャラリーとなっている。堤防を利用した屋外のアートスペースや鑑賞デッキ、日陰シェルターを兼ね備える。
 近年、諫早湾で見られた渡り鳥が東与賀町にも姿を現すようになった。それは先人たちが自然に逆らわない小規模干拓を行ってきたからだろう。10月26日には、水産資源を保護し自然環境を考えることを目的に開かれる第26回全国豊かな海づくり大会の会場になる。(藤田秀道)



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