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土木遺産

【vol.9】 山田の凱旋門

100年の風雪を耐え、文化財として蘇る

鹿児島県姶良町   山 田 の 凱 旋 門


山 田 の 凱 旋 門 かつて日本各地に凱旋門があった。明治時代、日清・日露戦争後に作られた。現在、残っているのは二門。鹿児島県姶良郡姶良町下名のアーチ式本格石造りの「山田の凱旋門」と、静岡市引佐町に残るアーチ型レンガ造りの「渋川の凱旋門」である。


山 田 の 凱 旋 門 「山田の凱旋門」の建設は100年前。日露戦争が終わった翌年の明治39年(1906年)3月、旧山田村(現姶良町)の出征兵士の帰還を出迎えた。高さ3・94m、幅4・88m。パリのエトワール凱旋門のミニチュアを思わせる美しい姿だ。が、実は長い間忘れられたのかの様にひっそりと佇んでいた。同じ町内の白金酒造石蔵とともに国指定登録有形文化財になったのは平成13年(2001年)。昨年、300万円をかけて初めて全面修復された。


「山田の凱旋門」はなぜ撤去されずに残ったのか。興味深い土木遺産である。

百年の風雪に耐えたのは石造りだからである。日本の凱旋門は日清戦争後の緑門(杉の葉アーチ)から始まった。日露戦争後は本格的な建造門が登場し、西洋風、和風と多彩で、高さ10数mにも達し威風堂々のものも少なくなかったが、木造漆喰造りだった。寿命は長くはない。作家・樋口一葉は浅草の凱旋門が取り壊されると聞き、慌てて見に行った話を残している。木造門は昭和20年(1945年)の第2次大戦終戦時までに姿を消した。

凱旋門の実測図 旧山田村は小石垣が多かった 小学校運動会では緑門が復活

凱旋門の実測図

旧山田村は小石垣が多かった

凱旋門再評価の機運のなかで昨年の小学校運動会では緑門が復活


「山田の凱旋門」には「地元の石工技術と伝統が生きている。デザインには当時の進取の精神が宿る」と姶良町歴史民俗資料館学芸員の下鶴弘さん(町教委主幹)は解説する。保存や文化財登録、改修に尽力した。改修は、積み石の隙間を埋め、アーチ部の支え部分内部の金属補強と門上部の両門柱ワイヤー接続補強だけで、表面の汚れや苔を取り除くと新造門のようにしっかり、美しく蘇ったという。

積み石の素材は近くの上名の池平から切り出された凝灰岩。石工は近郷の「細山ケサグマ」と伝えられる以外、建造技術にまつわるデータは何も残っていない。町村合併や水害で資料が散逸したという。

伝統であり、誇りでもある石建造物が長く忘れられた。とりわけ戦後は長く放置された。なぜか。「凱旋門」、つまり戦争関連遺跡だからである。元郵便局長がこんなエピソードを披露してくれた。「凱旋門の図柄を消印にと申請したら、外国から何と言われるか、と許可されなかった」。凱旋門前の伝統行事であった秋の十五夜綱打ち(大綱引き)も昭和30年代になくなった。藁を集め、綱をなう子供たちがいなくなったためだった。

再評価の機運は平成になってから。地元資料館が牽引力になった。今年3月11日、建立百周年式が現地で行われた。出席者は地元住民を中心に約150人。ささやかではあったが、十五夜綱打ちや門登り遊びなどの思い出を語り、地元だけで手に入る地場焼酎「凱旋門」を酌み交わし、「看板を立て、ちゃんと子供たちに伝えよう」などと語り合った。    (滝平 道郎)



下鶴 弘さん 「この角から登るのがコツだった」と榎田茂さん 唯一補強された門上部のワイヤー

唯一補強された門上部のワイヤー

下鶴 弘さん
姶良町歴史民族資料館学芸員

「この角から登るのがコツだった」と榎田茂さん

 
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